よもやまごと。

ラブドリームハピネスに頭を殴られて早数年経ったオタクの戯言です。

ハナレイ・ベイ、記憶と向き合い許すこと

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はい、記念すべき初投稿。ハナレイ・ベイ、見ました。なんというか……もう言葉が……ない……皆さん、見てくれましたか?おれたちの佐野玲於を見ろ。
まあ無いなりに感想を振り絞って書いてみたので、ちょっとだけお付き合い下さい。なおめちゃめちゃにネタバレ全開です!!!気をつけて!!!

本当は外に公開するつもりもないチラ裏だったんですが、舞台挨拶でキャストさんが積極的に感想発信してください!と仰ってたので公開してみました笑

めちゃくちゃ長いので読んでもらえるか分かりませんが……



この映画は一人の女性が、息子の死を通して人生で抱えてきた孤独や疎外感と向き合っていく物語だと思った。
最初タカシくんが亡くなったとき(ここ、あんな生々しく死体を映すのかとPG12の意味を知った)はまだ全く受け入れきれてないし骨壷を買ったり葬式をしてるシーンもどこかよそよそしかった。
葬式の帰り、「じゃあ、サイナラ」が聞こえるシーンは特にその失われた「日常」を意識して胸が詰まった……

ここで作品のキーワードになるのが、''物質としての思い出''かなと。

印象的な手形のくだりだったり、虹郎くんに写真ないの?と驚かれたりする箇所で、サチは自分が息子と築き上げてきた証左が何も無いことに気付かされる。

更に駐在さんの「どうかこの島を憎まないでください」「息子さんは自然の循環に還ったと考えてみては」、ホテル主人の反応に困ったような「いいやつだった、残念に思うよ」みたいな言葉たち。
それらの自分との乖離に、サチはこれまで避けていた自身の孤独を再認識し、10年かけて克服したのだろうな……と思った。

他にも死んだ旦那の形見のカセットプレイヤーもそうだし、最後の宿帳の写真もそう。
物は失った人自身ではないけど、その遺品が存在しているという事実を見て触れて許すことは、故人の死を受け入れることに繋がるというメッセージかな…と思った次第。
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あと話が前後するけど、やはりサチさんが前を向くきっかけになったのは虹郎くんと魁くんな訳ですよ。
享楽的で甘ったれなガキだけど、どこか息子に似ているから、不器用ながらあの頃タカシにしてやれなかったことをしてみたり、彼らの共通項であるサーフィンをしてみたり、と過去と現在をなぞるような行動を重ねているのが、とてもいじらしかった……
まあタカシくんよりもよっぽど素直な子達だからああやって心開けたのもあったんだろうけど……

そして元海兵隊のおじさんのくだりも結構大事だと感じた。あれって過去に囚われてしまった人の末路、サチさんの反面教師的な存在だと思うんですよ。
ちょっとここあんまり反芻出来てないのでまた考えときます。


そして終盤。片脚のサーファーを鬼気迫る表情で探し続ける吉田羊。ここでもう私はエンドレス号泣。(とかいいつつ、じゃ、サイナラの時点で既に泣いてた)

吉田羊さんの感情の見せ方や爆発のさせ方が神がかっている。この映画の良さの9割5分は吉田さんが担っている。そしてそれを撮るのがめちゃくちゃに上手い松永監督……

タカシを探している時に海がサチの心中のように荒波が押し寄せてるのをバックに撮ってるのもそう、夕日の中タカシと同じ場所に立つサチさんの無音で感じ入るところ、海中の透き通った表現、何よりラストシーンのサチさんのやっと見せた心からの微笑み。
美しいんですよ……こんなに自然を美しく撮れるのかと……サチさんも含めての自然なんだよ。

こんなに美しいのに、無情にも息子を奪っていた、だからこそ刺さる事実。


私が以前ハナレイベイ原作を読んだ時に、もっとドライというか一種の穏やかな平常の自然の中で、万物が循環していくという流れに、タカシはもちろん、サチさんが取り込まれていうような印象を受けたんです。

なので「これは希望の物語」と映画が銘打ったとき、そこまでサチさんの心が追いついていなくないか?と思ったんですが、映画はそこらへん見事でした。

原作の自然の循環というテーマを描きつつ、サチの孤独に焦点を当てたことで、自分自身を受け入れる(ことで息子の死も受け入れる)っていう風にテーマを昇華していて。

「私はこの島を受け入れようと思っています。でもこの島は、私を許してくれるでしょうか?」
この言葉って、最たるものだと思うんです。


つまるところ、ハナレイベイこそ、カウアイ島の美しい自然こそがタカシくんだったんです。

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常夏の美しい島で10年を過ごしながら、サチさんは1度も海に近付くことは無かった。しかし虹郎くんたちとの出会いで、間接的に息子の内面に触れたことで、やっと海に入ることが出来た。
海=タカシであり、海で嫌いだった息子への愛を認める=良い母ではなかった自分を許すことに繋がっていくんですよ……
親だって人間なんだから、そんな上手く生きられないのにね……10年かかってやっと気付ける程の難しくて単純なことなんだな……自分もちゃんと身近な人に気持ちを伝えておこう……後悔先に立たず……(反省)



まあこんな所かな。すごいまとまりのない言葉の羅列になってしまった。でもあのすごいものを見た後にまともな文は書けません。許して欲しい……

何回も見たいかって言われると、あんまり見たくない。見たらまた、苦しくなってしまうから。でも何回でも見て、この物語を、自然の美しさと愛の尊さを噛み締めたいですね……
とりあえずそんな所感です。



余談。原作の火葬のシーンで
アメリカン・エキスプレスで払えますか」
アメリカン・エキスプレスでどうぞ」
私は今、息子の火葬代をアメリカン・エキスプレスで払っているのだ。
みたいなところ、クソシュールなんだけどサチの心中が現実離れしている描写としてめちゃめちゃ的確だと思ってたので、ぜひ入れて欲しかった……固有名詞ダメか……
あ、原作は村上春樹にしては地の文が読みやすいですし、サチさんのシカゴ留学時代の話も詳しいので是非どうぞ。お話の結びの文章が格調高く、物悲しくも美しいので、そこだけでも読んでほしい。おすすめです。

明日も舞台挨拶見てくるので、パンフとか読み込んだらまた追記します……




(10/20追記)
何回も見たくないとかいいつつまた見てしまった。ので、改めて気づいたところや考え直した箇所を取り留めもなくまとめます。

▪しまい込んだ荷物と記憶
サチとタカシのカセットプレイヤーのやり取りの中で「親父のこと嫌いなんでしょ、なんで荷物捨てないの」みたいな言葉がありました。
これってサチの性格や愛情をよく表しているなぁと思ったんですよ……

荷物をしまって見えなくして、その存在を一旦シャットアウトするけど、奥底に眠る愛情が、完全に捨て去ることは許してくれない。箱の中にある限り、終わったことにならず時間がストップしてるんだと思う。
葬式後タカシの荷物を荒々しくしまったのも、遺されたあるはずの日常に耐えきれなかったんだろうな……。

そして全て終わったあと、ずっと閉ざしていた箱を開けてヘッドホンをつける。
この時やっとタカシの死と向き合い、故人として記憶に残すことを受け入れたんだと思います。前述した「物質としての記憶」に通じるかなと。

それが最後のあのシーンにも繋がってきます。


▪片脚のサーファー
「私はこの島を受け入れようとしています。しかしこの島は私を受け入れてくれるでしょうか?私はそれすらも受け入れるのですか?」(セリフ曖昧)

この言葉に込められたタカシへの狂おしいほどの後悔と愛情を、改めて考えると胸が詰まる。

タカシがサチに姿を表さないのは、紛れもない「タカシからサチへの返答」である訳で。まさに死人に口なし、今更愛を伝えることも出来ない残酷さ。

前述した様にタカシ=ハナレイベイとして考えると、虹郎くんたちに見えてサチには見えないのは、カウアイ島の自然の循環にサチを受け入れていないのかなと思ったり。

しかし海に入り文字通り自然と一体化したサチの後ろには、実は片脚のサーファーがいる。きっとタカシは姿は見せないものの、きっとあの大木のそばでずっとサチを見守り続けていたのだろうな……それを息子から母への愛情と呼ばずして何と呼ぶのか。

ラストシーン振り返ったサチが微笑んだのは、きっと愛情がやっと通じあったのだと、私は信じたいです。


▪音楽と撮影について
監督が音楽と撮影に力を入れたと仰ってたのでそれについての話。(めちゃくちゃ素人なんで浅学なのは許して欲しい)

基本的に音楽はほとんどない。撮影も手持ちカメラが主だ思う。環境音だけが響き手ブレもまざる空間は、サチのからっぽで揺れ動く心を示しているようだった。
一方で虹郎くんたちには最初のサーフィンシーンから軽やかな音楽がある。サチがボードで疑似体験すシーンも同じく。
それはやっとサチが音の彩りのある世界に戻りつつあるという暗喩なのかなと思った。

また、注目ポイントとしてサチの服装もある。初めてハナレイを訪れた時は白黒の無味乾燥な服だったが、10年が過ぎて南国に適応したシンプルながら色の鮮やかな服へと次第に変わっていく。さながらサチの心境の変化のように。

そんな中サチが片脚のサーファーを砂浜で探すシーンのピアノが個人的にとても印象的だった。
なぜ姿を現してくれないのかという焦燥と苦しみを表すようにピアノは不協和音を奏でる。

しかし、ラストシーン、全てを乗り越えて再び海へ戻ってきたサチには同じメロディが美しい和音で流れる。

本当に絡まった心の糸が解れたような感覚で、実に効果的な音の妙でした。
愛の喜びが映画の最初と最後を飾るのも同様に、同じ曲を違う気持ちで楽しむ仕掛けなのかもしれないです。(欲を言うとクライマックスの感動的なストリングスは無用だった気がする。サチの心象風景はいつもピアノが流れていて欲しかった)


何回も見たくないとか言いつつ、実際見てみると何度も発見があって、その度に考えさせられる映画です。元はと言えば推しが出るから見ようと思っだですけども、心からいい作品と出会えてよかったと思います。ありがとう監督……

この映画がたくさんの方に届きますように。